講演会「世界遺産とフランス」
― 20世紀の建築遺産 ル・コルビュジエの国際共同推薦をめぐって ―
講師 山名善之氏(東京理科大学准教授)
2013年11月9日(土)セシオン杉並 視聴覚室
●世界遺産登録のあゆみについて
2013年6月、第37回世界遺産委員会がカンボジアのプノンペンで開かれ、そこで新規の登録がなされた結果、文化遺産759件、自然遺産193件、複合遺産29件の計981件となり、日本は鎌倉と富士山の2件の申請案件のうち、「富士山 ― 信仰の対象と芸術の源泉」が認められました。
昨年、西和彦氏(文化庁文化財調査官)がこの講座でお話しされたように(昨年の講演会)、世界遺産委員会は、世界遺産条約締約国(約190ヵ国)から、異なる地域、文化が代表されるよう総会で選出された21か国で構成されます。任期は最長6年、日本は1993年から1999年、そして2011年に再選されました。また、会議には詰問機関であるICOMOS(国際記念物遺跡会議)、IUCN(国際自然保護連合)、ICCROM(文化財の保存および修復の研究のための国際センター)の代表者、さらに非政府組織なども出席します。
1972年、「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)が締結されます。これは、1960年代、フランスやイギリスの考古学者が、エジプトのスエズ運河国有化の動きに対し、人類共通の遺産を守ろうと呼びかけ、60か国が参加した「ヌビア遺跡救済キャンペーン」が発端となっています。また、世界遺産条約制定には、多くの第2次世界大戦経験者が参画しており、そこには「文化による相互理解」や文化の側面から平和に貢献したいといった、彼らの共通の思いがあったようです。
1977年フランスのパリで第1回世界遺産委員会(6/27〜7/1)が開かれ、翌1978年ワシントンD.Cで行われた2回目の委員会(9/5〜9/8)で、世界遺産登録リストの作成が始まり、文化遺産8件と「ガラパゴス諸島」(エクアドル)などを含む自然遺産4件が登録されました。1979年の第3回はエジプトのルクソールで開かれ、新たにヌビア遺跡を含む文化遺産34件と自然遺産10件、そして初の複合遺産としてマヤ文明の「ティカル国立公園」(グアテマラ)が登録され、総数は57件となりました。
1980年から1990年にかけては、登録物件は多様な広がりを見せました。例えば第11回(1987年)モダニズム建築の優れた計画都市として、1960年に完成した「ブラジリア」(ブラジル)が、建設してから短い期間で認められました。文化遺産に登録された同都市は、翌年の第12回委員会の開催都市となりました。また、第13回(1989年)パリ開催では、世界遺産第1号のヴィエリチカ岩塩坑(ポーランド)が危機遺産に登録され、それ以降、危機遺産の審議も重要な課題となっていきます。なお危機遺産は現在44件登録されています。
他の課題として、1980年代後半から取り上げられるようになったのは、文化遺産と自然遺産の数の不均衡です。文化遺産にはローマ水道橋(スペイン)や、産業遺産である王立製塩所(フランス)など多くの遺産が登録されている一方、自然遺産は「人の手が全く入らないもの」と条件が限定されていたため、登録が少なかったのです。そこで1995年第19回委員会において、世界遺産の多様化を促進する目的で「文化的景観」の概念が導入され、「フィリピン・ディリェーラの棚田郡」が登録されました。
2000年代半ばには、北朝鮮の「高句麗前期の都城と古墳」などが登録され、登録数が800件を超えましたが、その一方で、例えば「ケルン大聖堂」(ドイツ)が都市開発、都の景観との調和をめぐる問題で危機遺産に登録されるなど、数の抑制、地域格差の是正の動きが出てくるようになりました。さらに2006年ヴィリニュス(リトアニア)で開催された委員会では、文化遺産と自然遺産の間で異なっていた登録基準を、10項目の統合された基準に移行することが決まりました。
2009年にはドイツの「ドレスデン・エルベ渓谷」が削除されましたが、このことはICOMOSやIUCNが審査に慎重になり、判断が厳しくなったことを示しています。有名な物件の登録申請が減り、逆に分かり難い申請が増えたこともあり、多い年には60件以上登録されていた世界遺産も、現在では年20件程度の登録にとどまっています。
●新しい分野の世界遺産 ― ル・コルビュジエ作品群の国際共同推薦について
世界遺産のなかでも新しい分野として近年注目を集めているのが、20世紀の建築遺産です。とりわけフランスの建築家ル・コルビュジエが手掛けた作品群(世界中に分布する)を、複数の国が共同で世界遺産に推薦しようという動きがみられます。
近代建築の巨匠と称されるル・コルビュジエ(本名:シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ)は、1887年10月6日、スイスの時計作りの街ラ・ショー・ド・フォンで、文字盤職人の父とピアノ教師の母の次男として生まれました。当初は美術学校へ進みますが、建築の才能を見いだされ、パリに行き、鉄筋コンクリート建築の先駆者オーギュスト・ペレの事務所で学ぶようになります。1911年から東欧、トルコ、ギリシャ、イタリアを回り、その後「すべて西欧の建築の旅はギリシャから始まる」との言葉を残しています。
1914年、鉄筋コンクリートによる住宅建設方法「ドミノシステム」を発表します。「住宅は住むための機械である」との言葉は、彼の建築思想をよく表しています。都市計画においては、低層過密住宅より高層ビルを建て、周囲に緑地を造るのが合理的であるとし、さらに「近代建築の5原則」として、1)支柱、2)屋上庭園、3)自由な平面構成、4)横長窓、5)奔放な立面を挙げ、それらを建物建設の際に実践しました。
彼の作品は、スイス、フランス、イタリア、ベルギー、ロシアは元より、インド、ブラジルにまで広く及んでいます。代表作として、サヴォア邸、マルセイユのユニテ・ダビタシオン、ロンシャンの礼拝堂、ラ・トゥーレ修道院などが挙げられます。日本では上野の国立西洋美術館の設計を手掛けたことで有名です。
「建築は地上160センチの所にある目で知覚する」。この言葉通り、連続性、その空間の持つ暖かさ、音の響き、光と影のリズム、それらが時間とともに動くさま、それらの要素をル・コルビュジエは重視しました。常に新しいものを想像する「戦う建築家」として、建築物を多く残す一方、絵画、彫刻、詩も作り続けました。
ル・コルビュジエの建築作品は世界遺産に新たな息吹を吹き込む可能性があります。また複数の国による共同推薦という取り組みも画期的です。講演を踏まえ、これからの動きに注目していく必要があるでしょう。
(山田祐子)